岡城を抜くの巻き
岡城って言ったら殆どの人が豊後の岡城、そう「荒城の月」の背景になった竹田城を思い浮かべると思うとやけど、今回もチープに家の近所の筑前岡城で済ますとばい。
期待した人(あんま居らんやろうけど)スマンばい。もちろん朝霞市の岡城でも、奈良の岡城でもございません。
まず、一番解り易い入り口と思うとやけど良く見とかんと素通りしかねんけん気い付けとかんといけんばい。
国道三号線からやったら、岡垣市街地って方に降りてサンリーアイ、波津方面に向かって延々と進む。サンリーアイを過ぎてかなり行った(1.5KM位?)、左に池のある下り勾配になってすごの右側にひっそりと標識が出とるけん、邪魔にならんごと適当な所に車ば止めて。
交通量は少ないけんあんまり気兼ねせんでも、良かろうけど、どうしても路上駐車は嫌って方は、ちょっと裂きから右折(Uターンの感じ)したら吉木小学校と、隆守院ってお寺さんがあるけん、「岡城ば見に来ました。隆守公のの墓前にも行きたいとです」って言えば多分快く止めさせてくださると思います。(わたしゃこんなとこなら、路上駐車なんであてになるかはわかりません)
下んとが真ん中の看板引き伸ばしたのやけど、良う見えんやろいうけど、本当に行く時の楽しみに取っとって。なんせデジカメまとも?に使うとも初めてやし、仕事終わってからの取材やったけん
昨日の夕方から寝とらんし・・・
言い訳はいかんね。
下手糞でごめん。
北側から竹薮に入ると、すぐに本丸跡のしたに着く。
見上げると確かに急勾配であり多数でこの崖を登って、せめても厳しかたいって思う。小さい城とは言え、ここの攻防で幾人の武将、雑兵が散っていったことだろうと、考えさせられた。
しかし、平和な今の平成の世の岡城は、当然何の攻撃もしてこない。
それどころか、階段で本丸へと誘っている。
この森の中の感じは、小学校の頃探検しとった、近所の山の中になんか似とるね。(岡城のある辺りも近所ではあるが、車を動かせるからこその近所であっって小学生には異郷の地)まー大抵終点はただの畑やったけど。
階段を登るといきなり、こじんまりした広場に出た。
このサイトのトップの画像にもしとる、岡城本丸跡ですばい。
なんか、早いけど
岡城本丸ぶち抜いたり〜〜!
小さい、石の祠がいかにもって感じでいい味だしとるばい。この頃整備したみたいで、前来た時と違って地べたの草は集められとるし、ぐっと良い感じになっとりました。
ベンチもあり、ちょっとしたハイキングには良いのかもって、車降りて5分もたっとらんやん。これじゃ腹も減らんやない。
この手軽さは、小学校の社会(郷土史)の教材として使うのは、良いと思うばい。
あ、もしかしてすぐそこの吉木小学校の子供たちが掃除しようとかいな?
ゴミとか捨てられんね。とりあえず下の方を見てみるばい。
西側と、二の丸を見た写真やけど、結構な急勾配なのが解ると思うばいね。
こっから攻め上がろうとしても、石とか落とせば耐えられそうばい。
←見ての通り二の丸跡
こっちは掃除は、まだみたいで箒とか、ゴミも有ったです。
古いメガフォンが、村内放送で役に立ってたって感じで味があるばい。
お地蔵さんがいっぱいあって、麻生さんは結構良い殿様やったんやないかなっておもいます。
しかし、二の丸と、本丸の間にこれと言った防御施設が無いようにかんじられます。
もっと知っとー人やったらそげんとも解るとやろうけど2M位の土塁て言うか山肌しか無い。
こげなとこやったら二の丸盗ったら、抜いたも同然やん
これは二の丸から三の丸に行く途中の山肌、かなり急斜面ですよね。
で、下が三の丸。三の丸はうなぎの寝床みたいで、特に広い所はありません。
下の写真が、三の丸から二の丸を見上げたところ。
そうやん、この城の二の丸は本当に本丸の補助の為だけにあったんやないとかいな?
二の丸、本丸は一蓮托生。片っぽ堕ちたらはい、さようなら。その代わりに連携が取り易く、三の丸が堕ちても結構ねばれたかもしれんばい。
(またまた素人の憶測)
三の丸を抜けると道が上下と言うか中下に分かれとる
左は本丸、二の丸下を一周してここに戻ってくる道。
この道に弓隊ばならべたら、近付くとは難しかろうね、石投げても効きそうやし、と勝手に納得したとやけど、どうなんやろうか?
ばつまるしゃん教えてくんさい。
とりあえず、下へ向かい下山を試みる。
ちょっと暗くて解りにくいけど、なんか平地があってその横を道(階段)が遠慮するように通っとる。
絶対ここ、大手門の跡決定!
あとで何と言われようとも、間違え無え、俺の中では大手門。
左が大手門跡を下から見たとこで、右と、↓がその横の曲輪跡っぽいとこ
実は、今でこそ裏口みたいなとこが昔の大手口のようでした。
岡城の築城は文明年間(1469〜1487)室町幕府足利義政の命を受けた大内義弘の命に依り麻生近江守家延が行ったといわれている。
16世紀前半には花尾麻生家の次男麻生隆守(河内の守)の居城となったが、大内氏、大友氏の間を渡り歩いた隆守に対して腹を立てた大友宗麟の命を受けた大友家臣の瓜生貞延により、落とされたと言う。逆に瓜生貞延は大内系の宗像大宮司氏貞の家臣であったとの話もあり、どちらが真説であるかははっきりしていません。
しかし、どちらの説でも湯川山中腹の海蔵寺(ゆうれい坂の横のお寺)が隆守終焉の地とされている。
城主 麻生隆守 鷹取城所属 政治29・采配19・智謀16(能力は信長の野望蒼天録初期データ)
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