佐弘の倭の国 放浪記A
‐その2 「東海の巨鎮」花の清須を求めて(清洲城 編)‐
私、佐弘は自分の見聞を広げようと一人旅にでることにしたのですが・・・
気が付くとそこは未来の日本というところ・・・
どうせ旅にでるなら自分の知らないところをと思い、このままその日暮らしの旅にでることにしました。
そんなこんなで、この前の名古屋城からひょこひょこと天下を目指した信長を追って、
清須の地までやって来ました。
と、いきなり橋の向こうに立派なお城が見えてきましたよ!!
門をくぐると中庭の向こうに天守閣が、見たところ案外、新しい建物みたいですね。
何故かと思いきや、こちらは清洲町町制100週年記念事業として建てられた郷土館だそうです。
とにかく、中に入って見ましょうか、
※ 入場料(大人 300円 小人 150円)
展示物で一番目立っていたのは、信長公の「桶狭間出陣」で、謡曲敦盛を舞うシーンです。
人間五十年、下天の内をくたぶれば
夢幻の如くなり
ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか
うーむ、思ったより展示物が少ないなー
清洲城というと織田信長の尾張での居城なのですが、その前は尾張守護職 斯波氏の居城だったのですね。
文明8年(1476年)に斯波義重が守護所を下津城(愛知県稲沢市)から移したのが最初で、それから、清洲は尾張の中心地として発展していきます。
その後、斯波氏にとって代わったのが、守護代の織田氏! 弘治元年(1555年)に、守護代 織田信友を倒した、織田信長が入城!
織田信長の後、城主は信長嫡男 織田信忠、次男 織田信雄と代わり、天正14年(1586年)に信雄の手によって大改築が行なわれて、内・中・外の三重の堀に囲まれた大城郭と生まれ変わります。
豊臣秀次・福島正則・松平忠吉・徳川義直と城主が代わりながらも、清洲は人口6万〜7万人を擁する江戸・京都・大阪に次ぐ大都市だったわけです。
そんなこんなで最上楷 展望室に到着です!!
天守閣 西側風景
天守閣 北側風景
天守閣 南側風景
(JR名古屋駅方面)
どうやら、本当は当時の城は川の対岸にあったようです。そちらに行ってみましょう。
ああ、ありました。
石碑には、「右大臣織田信長公 古城跡」の文字!
しかし、この清洲も慶長15年(1610年)徳川家康の命で廃都、いっさいがっさい名古屋の町に持ってかれているのですよね。
この前いって来た名古屋城の西北櫓は「清洲櫓」とも呼ばれていて、もとは清洲城天守の古材で作られているそうです。
あと、書院や門も名古屋城に使われ、目前を流れる五条川の五条橋は名古屋駅前から少し行った所の円頓寺堀川に掛かっています。
城下町も住民ごと名古屋へ移動、この「清洲越し」によって「東海の巨鎮」清洲城は清洲の町と共に姿を消すことになりました。
「思いがけない名古屋ができて、花の清須は野となろう」
発掘調査された内堀石垣跡
上の遺跡から見つかった胴木
JR線の下をくぐった反対側に、織田信長像がありました。
今から、桶狭間に向かうところなのでしょうか?
この像、東海ではお酒「鬼殺し」のCMで使われたので有名!?
濃姫の像も城の後ろにひっそりと立ってました
‐おまけ 桶狭間の戦いからの凱旋(今川塚 編)‐
清洲城は、あまり面影が残っていませんでしたが、資料から思ったより大きな城だったことが驚きでしたね。
そして、盛んに話題に上がってくる桶狭間の合戦!
その合戦で勝利した信長が熱田神宮から清洲へ凱旋した美濃路の途中で、今川義元の首を弔い、塚を作ったとのこと
ここは一度、その塚を見に行きましょう!ちょっと、場所は離れていますが大丈夫!
最近、私が習得した、人力二輪移動術?(自転車)でスイスイと移動です。
清洲の町を進んでいくと、古い町並みが所々見ることができます。
「清洲越し」の後も、美濃街道の清洲宿としてにぎわったとのことです。
五条川下流へしばらく進むと見えてきましたのが、須ヶ口というところです。
確かこの辺りで良いはずなのですが・・・
須ヶ口の駅前の案内マップで、位置を確認!!
2番に「今川塚」を発見しましたよ!
なんださっきの須ヶ口の交差点の所じゃないですか
早速、いってみましょう!
・・・・・・・あり?
なかなか見つからない・・・・。
探し回ること小一時間、自力で探すことを断念して交番へ・・・
はぁ〜〜
どうやら、今川塚は民家になってしまっていて今は見られないとのこと
ちょっとというかかなり残念!!
須ヶ口交差点の角の家の壁に、
「今川塚」の案内だけ見つけました。
こうなったら現地へ行ってやりましょう。
ということで、私、佐弘、人力二輪移動術(自転車!?)でこの清洲から桶狭間の古戦場へ強行です!!
次回は桶狭間古戦場編です。では!
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